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「いや、そんなこたあ、――そんなこたあしませんよ」
「や、さあお上り下さい。さあ――」
八月末の思ひがけない冷気の後で又暑さがぶり返し、それは永くつゞいて、もうがまんがならないと云ふ頃に一寸色目をつかつた風に凌しのぎ易くなつたが、それも一日か二日で又もやぶり返し、今度は前ほどではないにしても緩漫に、のろのろと、いつまでも同じやうな暑さの日がつゞいて、九月に入り、九月の半ば過ぎてもまだちつとも初秋らしい気配は見えなかつた。あの夏も頂点を過ぎたのだと思はせたやうな草木の黒つぽさも何かの間違ひ恐らく人間の希望的観測といふやつだつたのだらう、その黒い沈んだ色さへ不機嫌さうにいよいよ黒つぽく見えた。
と、房一は机の上に虫の卵の形を書いてみせた。
男はその時、案外なほど寂しみのある表情を浮かべ、頬杖をついてぼんやり戸口の方に顔を向けていたが、眼だけをちよつと動かせた。だが、知らぬふりでビールを口へ持つて行つた。
あのことだな、と房一は思つた。訊いてどうかな、とは感じたが、相手があまりさつぱりしているので、
二人は間近かで眩まぶしげに眺め合つた。そのまますれちがつて、二三間行きすぎた頃、房一が見送り気味にふりかへるのと、相手が車の上から首をねぢ向けるのと同時だつた。そのはずみに男はひよいと地上に降り立つた。
「さうですが、それはさうにちがひないが――」
その時、千光寺の住職がひよろ長い姿を現はした。彼はたつた今さつき剃そつたばかりのやうな青いつるつるな頭をしていた。今夜の主役だといふ意識がさうさせたのだらう、もつともらしい儀式ぶつた表情のまゝ、彼は集つた人達には目もくれずにまつすぐに仏壇の前に進んだ。だが、そのひきしめたつもりの口もとにはあの真白い偉大な反そつ歯ぱがのぞいていた。
「本日は、私ごとき者までお招きに預りまして」
川沿ひに細長く続いている河原町の通りは、地勢のせいでゆるい下り勾配をなしていた。所々で屋並みが切れて、そこには茶畑があつたり、空樽が乾してあつたりするかと思ふと、次の空地にはどこの家で使つているのか判らないやうな大きな井戸がその円く肥つた腹のやうな焼物の縁をたゞあつけらかんと日に照されていたりした。
客の心持が変ると共に、温泉宿の姿も昔とはまったく変った。むかしの名所図会めいしょずえや風景画を見た人はみな承知であろうが、大抵の温泉宿は茅葺屋根であった。明治以後は次第にその建築も改まって、東京近傍にはさすがに茅葺のあとを絶ったが、明治三十年頃までの温泉宿は、今から思えば実に粗末なものであった。
「いつたい、今日は何ごとかの」